博多 小説 気骨稜々なり 島井宗室 

 

小説 気骨稜々なり
小説 気骨稜々なり

2014年大河ドラマ「軍師官兵衛」が放送されている。
 福岡と博多の原型は黒田官兵衛と初代福岡藩主・長政が構築したそうだ。小説は島井宗室の波乱に満ちた一生を 描いている。
呉服町の近くには商人島井宗室の石碑がある。屋敷の土塀は空襲後も残っていたため、櫛田神社境内に移し再現され、「博多べい」として残されている。墓地は崇福寺にある。死の直前には17ヶ条の訓戒を送っている。訓戒は現在でもそのまま通用する。

博多の商人たちは、自らの実力で博多の町を築いた。堺は最終的に信長に屈服するが、博多の町は商人の自由自治を貫いた。島井宗室がいたからである。博多の町を町人のための町として復興し、武家の介入を許さなかった。博多商人の世界を見事に描いている。島井宗室は博多で生まれ育ち、朝鮮半島からの商品の貿易で、豪商にのし上がった。本能寺の変の時には、明智光秀の軍が本能寺に襲いかかったが、部屋の壁に掛かっていた「弘法大師筆千字文の「遠浦帰帆図」をちゃっかり持って脱出した。

残念なことに、現在の博多は古い歴史が有るが今の博多には都市開発で近代化されすぎて、肝心の昔の博多の歴史が消えてしまっている。商売もデパートなどは地元の店がなくなり東京や大阪の店が中心になっている。

家訓 遺訓 店訓 社訓 : 島井宗室 遺言状
家訓 遺訓 店訓 社訓 : 島井宗室 遺言状
島井宗室の墓
島井宗室の墓
妙楽寺 〒812-0037 福岡市博多区御供所町13-6 正和5年に創建。 大陸との貿易交流でにぎわった。:現在の博多区古門戸町。
妙楽寺 〒812-0037 福岡市博多区御供所町13-6
正和5年に創建。 大陸との貿易交流でにぎわった。:現在の博多区古門戸町。

 

福岡市博多区中呉服町58 崇福寺に宗室の墓地がある。
福岡市博多区中呉服町58 崇福寺に宗室の墓地がある。

 

 

 

 

 

 

博多 どんたくの衣装 1953年頃 

博多どんたくに出た後でたくさん歩いたので汗をかいている。

今から60年前の昔は「西鉄の花電車」や
「町々の仮設舞台」での「素人」の「踊りやのど自慢」で賑やかだった。博多独特の昔の雰囲気があった。

今の博多は東京のデパート等が昔の博多の店を押しのけてしまっている。昔の雰囲気がどこかに消えてしまっている。

 

 

 

博多 高校時代 ヨット部 名島の海岸

 

高校時代はヨット部に入っていた 名島において
高校時代はヨット部に入っていた 名島において
ヨットの舵(ラダー)を持ってのんびりしている 朝海に出ると夕方まで陸に戻らない 一日中海の上にいた 弁当は海の上で食べる
ヨットの舵(ラダー)を持ってのんびりしている 朝海に出ると夕方まで陸に戻らない 一日中海の上にいた 弁当は海の上で食べる
高校時代はヨット部で土曜と日曜日は朝から夕方まで海の上で過ごした
高校時代はヨット部で土曜と日曜日は朝から夕方まで海の上で過ごした

 

博多 甦れ 俺達の西鉄ライオンズ!

我が往年の西鉄ライオンズの英雄たち
我が往年の西鉄ライオンズの英雄たち

私の応援する球団は 巨人や阪神や
西武ライオンズやソフトバンクホークスではない。
それは平和台を本拠地にする
西鉄ライオンズである。
しかしその西鉄ライオンズは今はもうない。

私は子供のころ、黄金時代の 西鉄ライオンズの試合を見てきた。
豊田、中西、大下・・・稲尾・・・、大下選手は赤ら顔でカッコよかった。

幼稚園の時は毎日のように平和台まで大人に連れて行ってもらった。
(入場料が只だった)。小学生になると連れて行ってもらえなくなった。
当時は球場の周りの木に登ってみる人も多かった。

南海ホークスが強かった。
選手個人個人が野武士のような感じで生き生きしていた。
今の野球は管理野球である。管理野球は面白くない!
選手一人ひとりの個性が前に出てこない。

1978年シーズン終了後,クラウンがライオンズ球団を売却、
福岡から埼玉県所沢市への移転した。
そして、若い人は「西鉄ライオンズ」を知らない人が増えてきた。

甦れ! 俺の西鉄ライオンズ
https://www.youtube.com/watch?v=FoBjRP-Qmlw
西鉄ライオンズの歌
https://www.youtube.com/watch?v=9zk3ksRytBU

博多 櫛田神社 祇園祭  博多山笠

子供の時は大黒流で、締め込み姿(ハッピとヘコ)で出ていた。
若干恥ずかしいが、尻が丸出しなのがよい。

 

毎年博多で7月に開催される
櫛田神社に奉納される祇園祭。
http://www.hakatayamakasa.com/kushida.php


祇園祭といっても、京都の祇園祭と異なり、素朴で勇ましい、荒荒らしい。
私は京都の祇園祭は、洗練されすぎており田舎者には
分かりにくい、
単純で荒々しい博多の山笠の方が、単純で好きである。


長谷川 法世が有名。
代表作に『博多っ子純情』がある。福岡・博多に住む思春期の男女の青春を
描いた作品として人気を集めた。

「お櫛田さん」の愛称で広く市民から親しまれている神社。
奉納される博多祇園山笠は、博多の夏の風物詩として全国的にも有名。
櫛田神社には「博多へい」がある。
http://www.geocities.jp/joysunny/fukuoka/fukuoka172.htm

櫛田神社の博多へいの前で
櫛田神社の博多へいの前で

 

 

 

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京都の祇園祭は優雅で博多の荒々しい山笠とは雰囲気が異なる。
京都の祇園祭は優雅で、博多の山笠とは雰囲気が異なる。

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櫛田神社に奉納されている飾り山笠
櫛田神社に奉納されている飾り山

 

 

博多 西鉄ライオンズ 神様仏様稲尾様

神様、仏様、稲尾様、西鉄ライオンズの黄金期に貢献

稲尾投手は、入団当初は注目された選手ではなく、バッティング投手として入団
打撃投手を務めており、 「手動式練習機」とも呼ばれていた・・・

東京の憎い巨人をやっつけてくれた。博多の英雄! 
ヒットは打たれるが、何故か2アウトからが多かったので点は取られなかった。
打者へは初めに「アウトコース低め」のスライダーで、
すぐに
「ストライクを二つ」取っていた。

博多の少年野球のピッチャーはあこがれの稲尾投手の
投球フォームを真似て投げていた。

1963年日本シリーズ「西鉄vs巨人」
https://www.youtube.com/watch?v=9cIfVJmqthY

背番号24 稲尾投手
背番号24
稲尾投手

 

 

 

 

 

 

 

 

 

博多 うどん 博多の伝統の味の危機  

 

うどんにはネギが欠かせない
うどんにはネギが欠かせない昔の博多っ子ではある私から見ると

博多のグルメは「博多ラーメン」「辛子明太子」が
有名だが、
私にはもうひとつである。
私には「丸天うどん+かしわ飯」が最高である。

「丸天うどん」は博多独特の具で、
庶民に幅広い人気がある。

魚の練り物を揚げた丸い形の天ぷらが入っている。
もう一つの代表は「ごぼう天うどん」である。

しかし、博多の丸天うどん 伝統の味の危機を感じる。
博多の味の東京・
大阪化である。

博多に行った際に、うどんの看板が目に入った。
博多のうどんを食べるのは久しぶりだった。博多のうどんは「だし」が勝負である。
ところが看板は「博多うどん」だったが

残念ながら

・だしは博多の味ではなく、「関西や東京」のだしの味だった。
看板に偽りあり・・これは「博多の丸天うどん」 ではない!

・「ねぎ」はテーブルの上に置いてなく、ほんの少しだけネギが入っていた

関西や東京からの店が増えているのか   
博多の伝統の味が失われてきている。
博多の味の文化が退化しているのでは?

博多のうどんの店
http://tabelog.com/udon/fukuoka/A4001/A400101/rank/

博多  「甦れ!俺の西鉄ライオンズ」

古き良きあの時代を博多で過ごした。今の時代にはなかった、
オーマンで、エネルギーと強烈な個性が同居していたチームだった。

私は幼稚園児だったが、平和台によく通っていた。
幼稚園までは入場料が只だったので、兄や知人に連れてきてもらった。
小学生になって入場料がいるようになると
だれも 私を連れて行ってくれなくなった。

豊田、中西、大下、特に稲尾・・みんな英雄だった。
そして巨人を倒して日本一になった。博多の街は興奮した!
平和台の外の木に登って応援した。

私を含め子供はみんな稲尾投手のピッチングフォームをマネしていた。
西鉄ライオンズは戻ってこない。

子供のころの私
子供のころの私

 甦れ!俺の西鉄ライオンズ

 (作詞・作曲:中山大三郎/編曲:京 建輔) (歌:黒田武士)

1.だれに怒っていいのか わからないが
おれの西鉄ライオンズ もうなくなった
高倉がいた 豊田がいた 大下がいた
中西がいた 関口がいた 和田がいた
太平洋 クラウンと 名前が変わる
その度に おれたちは とまどうばかり
 かえせ かえせ ライオンズをかえせ
 かえせ かえせ ライオンズをかえせ

2.どこのファンかときかれ 答える時は
今も 西鉄ライオンズ そう答えるさ
小淵がいた 仰木がいた 滝内がいた
河野がいた 玉造がいた 城戸がいた
生えぬきの 選手たち 悲しむだろう
あのころの 西鉄は あとかたもない

 かえせ かえせ ライオンズをかえせ
 かえせ かえせ ライオンズをかえせ

3.そしていつでも強かった 日本一だった
おれの西鉄ライオンズ 胸張ったものさ
稲尾がいた 河村がいた 島原がいた
西村がいた 若生がいた 畑がいた
なつかしい サムライの 姿がうかぶ
今もなお この胸の 血潮がさわぐ
西鉄ファンよ 今こそみんな 立ち上がろうよ
おれたちの手に ライオンズを とりもどそうよ
あたらしい名前は たとえば九州ライオンズ
心から 応援できるチームにしよう

 かえせ かえせ ライオンズをかえせ
 かえせ かえせ ライオンズをかえせ 

甦れ! 俺の西鉄ライオンズ youtube
https://www.youtube.com/watch?v=FoBjRP-Qmlw

博多 丸天うどんが 一番うまかばい

丸天が一番おいしい
丸天が一番おいしい

 

かしわめし
かしわめし

 

 

 

 

このネギがないと美味しくない
このネギがないと美味しくない

 

 

博多のうどんは「丸天」が最高である。
ネギを山盛りに入れて食べる。
「ごぼう天うどん」も美味しい。
うどんと一緒に、「かしわめし」もうまかばい。

博多に帰ったら食べることにしている。
ラーメンも美味しいが、
やっぱり私はラーメンよりもうどんが好きだ。
出汁とネギのコンビネーションが独特で美味しい!
東京や大阪では食べられない。

博多 蒙古来襲 亀山上皇の銅像

福岡には東公園と西公園がある。福岡県庁はいつの間にか
私の知らない間に、天神から東公園に移転していた。
しかし随分と以前のようだ。

元寇の古戦場である東公園の敷地内に日蓮聖人の銅像の下にある
元寇の古戦場である東公園の敷地内に日蓮聖人の銅像の下にある

・亀山上皇像
     元寇の際に亀山上皇は「我が身をもって国難に代わらん」と
  敵国降伏を折願された故事を記念して、建立された。
台座に「敵国降伏」の文字

・日蓮聖人像
     日蓮は「地震・災害・飢饉・戦争」は「法華経」を信じないから起こると考えた。
「立正安国論」にて「他の仏教を信じたらこんなにたくさんの国難が襲い掛かる。
でもそれらを捨てて俺の教えを信じれば救われるぞ」と主張。

https://www.youtube.com/watch?v=jaHNJcB_KcQ

・元寇史料館
  福岡市東公園あたりは、元寇のときの戦場であった。
  中国(モンゴル帝国)と朝鮮(高麗王国)によって行われた対日本侵攻
  1度目を文永の役、2度目を弘安の役と呼ばれている
  レリーフは対馬と壱岐の住民は侵略で殺されたもの
     福岡の各地には多数の今でも防塁跡が残されている
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87%E9%98%B2%E5%A1%81

・十日恵比須神社
  「商売繁盛」の御利益がある。「えびす様」と「だいこく様」が祀られている。
子供のころは必ず1月10日頃に家族と行ってた。

http://www.bekkoame.ne.jp/~gensei/ten/toukou.html

鎌倉時代に元寇のときに、神風(台風)が来なければ、今頃日本は中国の属国だっただろう。

博多 鶴の子 うどん 西鉄ライオンズ 

 

岩中祥史/著 「転勤したい街」全国第一位の都市──博多。独特の屋台文化、明太子だけではない美味しい郷土料理の数々、福岡ダイエーホークスにみる商売成功のツボ、祇園山笠に代表される色濃い街意識、
岩中祥史/著
「転勤したい街」全国第一位の都市──博多。独特の屋台文化、明太子だけではない美味しい郷土料理の数々、福岡ダイエーホークスにみる商売成功のツボ、祇園山笠に代表される色濃い街意識、

「博多学」(新潮文庫)は大変面白かった。

私は博多で育ちで、青春時代をここで過ごしたが、
いつの間にか東京や大阪での暮らしが長くなり、
博多の事に疎くなってきているが

この本は博多の住民の気質や文化を的確に見抜いてる。

博多人の性格はすぐに新しい事に興味を待つが、飽きるのも早い
東北人と反対の性格を持つ。

目立ちたがり屋の性格のためか福岡出身の芸能人が意外と多い。

時々冠婚葬祭で博多に帰ると、懐かしいものが残っている。
「あのくさ」、「しゃーしか」、「なんばしようと」・・独特な訛りの博多弁
「対小路」や「呉服町」の懐かしい昔からの地名、

ただし昔の地名がいつの間にか新しい地名に変わってきている。
特に昔は海に面した海岸線が今ではすっかり埋め立てられている。
昔の「ももちの海水浴場」は「シーサイドももち海浜公園」なのか?

さびしいのは・・・
老舗デパートである天神の岩田屋や中洲の玉屋はもはやない。
土居町の辺りの様子も見慣れた建物がいつの間にかなくなっている。
寿通りも川端通りも雰囲気がすっかり様子が変わっている。
http://www.asocie.jp/reizen/history/04.html

少し残念なのは・・・・人口が減少しているので仕方ないが!
私の母校の奈良屋小学校と博多第2中学校
子供の人口減で統合されて新しい学校名になっている。
http://www.hakata-pta.net/hakata/
http://www.fuku-c.ed.jp/schoolhp/jhhakata/

今も元気なのは・・・
石村萬盛堂の「鶴乃子」、名物の独特の味の「丸天うどんとかしわめし」
「丸天うどんとかしわめし」は東京や大阪よりも何と言っても“だし”がうまい。

博多っ子純情で有名になった「ラーメン、辛しめんたい」・・

一番残念なのは・・・・
「西鉄ライオンズ」がなくなっている。
豊田、中西、大下・・・稲尾  最強の軍団だった。
それがいつの間にか 「ソフトバンク・ホークス」に!

①西鉄ライオンズの歌 
https://www.youtube.com/watch?v=9zk3ksRytBU
②西鉄ライオンズの画像
http://www.bing.com/videos/search?q=%E8%A5%BF%E9%89%84%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%82%BA%E3%80%80&qpvt=%E8%A5%BF%E9%89%84%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%82%BA%E3%80%80&FORM=VDRE 

歴史的には、博多は古くからの国際的な港町で国際都市である。
韓国の釜山はすぐそこの距離である。  

昔から博多には外からもたらされたエネルギーを吸い込みながら、
 発展してきた。

大宰府の外港であった博多津には筑紫館という
日本最古の外交施設が存在した。
遣唐使が経由地として訪れていた757年に櫛田神社が創建された。
806年には唐より帰朝した空海は博多に東長寺を建立している。
http://yokanavi.com/jp/theme/detail/203

昔の博多商人は東南アジアの拠点都市である
その立地を十二分に生かし、
近隣の海外へ進出し
したたかに生き抜いてきた。

秀吉の時代には多くの豪商が活躍していた。たとえば
嶋井宗室・神屋宗湛・大賀宗九は「博多の三傑」と呼ばれる。
http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/cultural_properties/detail/84

しかし近年は地元の企業が衰退し、東京からの企業の進出が目立つ。
例えばデパートはほとんど東京からの進出である。
福岡も大阪も東京の街並みもどこも同じようで、区別がつかない。

町を歩いていて博多の町の本当に大事なもの(伝統の歴史・文化)
なくなってきているのが残念だ。

博多が東南アジアの拠点都市として
ますます「個性的」に 発展することを願う!

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