ペット  私の大事な愛犬ラッキーの死

ラッキーの17年の一生 赤ちゃん~天国に行くまで

愛犬ラッキー(パピヨン17歳、体重2キロ)が亡くなった。
若い時は元気はつらつで、主人である私の言うことを聞かないが、
とてもハンサムで可愛いかった。
健康でほとんど病気はしなかった。

昔四国88箇所遍路と西国33箇所観音巡りを一緒に回った。
老齢なので足がだんだん弱ってきていたが、突然の死だった。
典型的なPPK(ピンピンコロリ)だ。私もPPKで死にたい。
諸行無常、犬も人間も死ぬ時はあっけない。
愛犬の突然の死でペットロスになっている。

ラッキーが1歳の頃 ヤンチャで元気だった!

ペットと泊まれる宿で 淡路島

自分で顔を洗わなくても、ラッキーが丁寧に洗ってくれる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ベトナム ハロン湾 アンコールワット

■ベトナム
 ハロン湾を貸切船でクルーズ!

 鶏の形をした奇石群や船内での昼食♪

 

 


■カンボジア シェムリアップ!

 アンコールワット、アンコールトムなどの遺跡群!
 アンコールワットの朝日観賞&プレループからの夕日!

 

 

  • ツアー行程表
日程 場所 訪問先              

1日

関西空港発

ハノイ着

ハノイ発

ハロン湾着

10:30

午後

夕刻

■ハノイ空港
■ハノイ市内観光
【タンロン城、
旧市街散策】
■ハロン湾へ◇夕食
フォー
ベトナム料理

 

 

宿泊地 (ハロン湾泊)
2

ハロン湾発

ハノイ発

シェムリアップ着

午後

■ハロン湾
クルーズ

◇昼食 船上
 ■下船後、ハノイへ
 ■空路、
  シェムリアップ
◇宿泊ホテルにて
夕食
宿泊地 (シェムリアップ泊)
3日

シェムリアップ 早朝

午前

午後

夕刻

■アンコールワット
 朝日観賞
■アンコールトム
【バイヨン寺院、
ピミヤナカス、
象のテラス、ライ王のテラス】
■タ・プロム寺院
■アンコールワット
■プレループ夕観賞
アプサラダンス
ディナーショー
4日

シェムリアップ発 午前

午後

■トンレサップ湖
クルーズ
■ベンメリア遺跡観光
◇夕食はクメール料理
■空路、帰国の途へ
5日

関西空港着 06:40 ■解散

 

タイ アユタヤバンパイン離宮のんびり

タイのアユタヤのバンパイン離宮
行程
1日目 バンコク ホテル
2日目 バンコク市内観光 暁の寺、エメラルド寺院、王宮
3日目 アユタヤ、バンパイン離宮、象乗り
4日目 帰国

アユタヤ日本人町を物語る遺跡はない。
アユタヤ日本人町は、日本の戦国時代には主君を失った浪人が流れてきた。
この日本人傭兵隊の勢力は200あるいは800人とも言われる勢力に膨張し、
傭兵として政治的にも大きな力を持つようになった。これは山田長政もその一人である。
現地では、当時の日本人に対してはあまり評判がよくないようだ。

感想
バンパイン離宮が一番」印象に残った。
アユタヤ王朝時代の夏の離宮を再建したもの。
アユタヤ時代からの建物、チーク材の 豪華な中国風建築もある。

古き良き時代の本当の「のんびりした豊かさ」を感じた。
こののんびりした雰囲気は日本にはない。

王室の離宮たいへんきれいに整備されている。
いろいろな世界各国の様式の建物が点在している。
バンパイア

象に乗る
象に乗る

 

エメラルド寺院ワットポー
エメラルド寺院ワットポー
アユタヤワットプラマハタート
アユタヤワットプラマハタート

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

タイ 津波後プーケットはさびれていた

歴史  13世紀ごろから錫の採掘・交易に携わったりするため
中国人が1917年まで多くプーケットに流れ込んだ。
これら華人の子孫による鉄パイプなどを体の至る所に突き刺し
街中を練り歩く血みどろの祭り、斎食祭りはタイ全土で有名との事
インドにも有り様な話、複雑な歴史が有りそう。

風光明媚さから1980年代以降世界的な観光地となっており
世界各国から年間を通じ多くの観光客を集めている。
2004年12月26日、「スマトラ島沖地震」がタイにも押し寄せて
大きな被害が発生した。

涅槃仏の前で集合写真 足の裏には文様がある
涅槃仏の前で集合写真
足の裏には文様がある

タイのミャンマー寺院
タイのミャンマー寺院

タイのお寺
タイのお寺

タイ プーケット
タイ プーケット

タイ

 

 

博多 小説 気骨稜々なり 島井宗室 

 

小説 気骨稜々なり
小説 気骨稜々なり

2014年大河ドラマ「軍師官兵衛」が放送されている。
 福岡と博多の原型は黒田官兵衛と初代福岡藩主・長政が構築したそうだ。小説は島井宗室の波乱に満ちた一生を 描いている。
呉服町の近くには商人島井宗室の石碑がある。屋敷の土塀は空襲後も残っていたため、櫛田神社境内に移し再現され、「博多べい」として残されている。墓地は崇福寺にある。死の直前には17ヶ条の訓戒を送っている。訓戒は現在でもそのまま通用する。

博多の商人たちは、自らの実力で博多の町を築いた。堺は最終的に信長に屈服するが、博多の町は商人の自由自治を貫いた。島井宗室がいたからである。博多の町を町人のための町として復興し、武家の介入を許さなかった。博多商人の世界を見事に描いている。島井宗室は博多で生まれ育ち、朝鮮半島からの商品の貿易で、豪商にのし上がった。本能寺の変の時には、明智光秀の軍が本能寺に襲いかかったが、部屋の壁に掛かっていた「弘法大師筆千字文の「遠浦帰帆図」をちゃっかり持って脱出した。

残念なことに、現在の博多は古い歴史が有るが今の博多には都市開発で近代化されすぎて、肝心の昔の博多の歴史が消えてしまっている。商売もデパートなどは地元の店がなくなり東京や大阪の店が中心になっている。

家訓 遺訓 店訓 社訓 : 島井宗室 遺言状
家訓 遺訓 店訓 社訓 : 島井宗室 遺言状

島井宗室の墓
島井宗室の墓

妙楽寺 〒812-0037 福岡市博多区御供所町13-6 正和5年に創建。 大陸との貿易交流でにぎわった。:現在の博多区古門戸町。
妙楽寺 〒812-0037 福岡市博多区御供所町13-6
正和5年に創建。 大陸との貿易交流でにぎわった。:現在の博多区古門戸町。

 

福岡市博多区中呉服町58 崇福寺に宗室の墓地がある。
福岡市博多区中呉服町58 崇福寺に宗室の墓地がある。

 

 

 

 

 

 

博多 ろうあの天才写真家 井上孝治

 

氷を舐める少年
氷を舐める少年

福岡が誇る「ろうあの天才カメラマン」井上孝治氏が紹介されている。
幼い頃の事故で聴力と言葉を失った井上氏にとって、カメラが
コミュニケーション手段だった。

モノクロの写真集には、昭和30年代の福岡、
カラーよりモノクロなのが良い。
そこで暮らす子供たちの素朴であどけない姿だった。
今の日本では絶対に見れないあの当時の雰囲気・情景だ。

昭和20~30年代の福岡では「ありふれた風景」だったろうが
私には強烈な印象である。
特に自動車の通らない道で子供が遊んでいる作品は素晴らしい。
今は自動車や電化製品で随分と生活は便利になっているが、
その分人間の持っていたはずの生き生きした
「本来の素朴で素直な笑顔」が子供達の顔から失われている。
 
ここで撮られている作品は、
街で見付けたありふれた日常生活のヒトコマばかり。
それもモノクロ写真で撮ってある。やはりカラーよりもモノクロが良い。

福岡で暮らす人々や子供たちのあどけない姿。
「ALWAYS 三丁目の夕日」の時代よりも もう一つ古い・・
戦後の貧しい素朴な当時の福岡の風景だ。

雨になるとぬかるむ、舗装のされていない道が懐かしい!
そこには鼻水垂らして、裸足で歩いてたり、まっぱだかで川で遊ぶ元気な子供たち。

 “経済的な豊かさ”はなかったが、
“心の豊かさ”に溢れている。

 
http://www.nhk.or.jp/etv21c/index2.html
http://zahyo.sakura.ne.jp/agx/bibouroku/about-kouji-inoue-1.html
http://www.bing.com/images/search?q=%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%AD%9D%E6%B2%BB&qpvt=%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%AD%9D%E6%B2%BB&FORM=IGRE

博多 どんたくの衣装 1953年頃 

博多どんたくに出た後でたくさん歩いたので汗をかいている。

今から60年前の昔は「西鉄の花電車」や
「町々の仮設舞台」での「素人」の「踊りやのど自慢」で賑やかだった。博多独特の昔の雰囲気があった。

今の博多は東京のデパート等が昔の博多の店を押しのけてしまっている。昔の雰囲気がどこかに消えてしまっている。

 

 

 

博多 高校時代 ヨット部 名島の海岸

 

高校時代はヨット部に入っていた 名島において
高校時代はヨット部に入っていた 名島において

ヨットの舵(ラダー)を持ってのんびりしている 朝海に出ると夕方まで陸に戻らない 一日中海の上にいた 弁当は海の上で食べる
ヨットの舵(ラダー)を持ってのんびりしている 朝海に出ると夕方まで陸に戻らない 一日中海の上にいた 弁当は海の上で食べる

高校時代はヨット部で土曜と日曜日は朝から夕方まで海の上で過ごした
高校時代はヨット部で土曜と日曜日は朝から夕方まで海の上で過ごした

 

博多 甦れ 俺達の西鉄ライオンズ!

我が往年の西鉄ライオンズの英雄たち
我が往年の西鉄ライオンズの英雄たち

私の応援する球団は 巨人や阪神や
西武ライオンズやソフトバンクホークスではない。
それは平和台を本拠地にする
西鉄ライオンズである。
しかしその西鉄ライオンズは今はもうない。

私は子供のころ、黄金時代の 西鉄ライオンズの試合を見てきた。
豊田、中西、大下・・・稲尾・・・、大下選手は赤ら顔でカッコよかった。

幼稚園の時は毎日のように平和台まで大人に連れて行ってもらった。
(入場料が只だった)。小学生になると連れて行ってもらえなくなった。
当時は球場の周りの木に登ってみる人も多かった。

南海ホークスが強かった。
選手個人個人が野武士のような感じで生き生きしていた。
今の野球は管理野球である。管理野球は面白くない!
選手一人ひとりの個性が前に出てこない。

1978年シーズン終了後,クラウンがライオンズ球団を売却、
福岡から埼玉県所沢市への移転した。
そして、若い人は「西鉄ライオンズ」を知らない人が増えてきた。

甦れ! 俺の西鉄ライオンズ
https://www.youtube.com/watch?v=FoBjRP-Qmlw
西鉄ライオンズの歌
https://www.youtube.com/watch?v=9zk3ksRytBU

博多 櫛田神社 祇園祭  博多山笠

子供の時は大黒流で、締め込み姿(ハッピとヘコ)で出ていた。
若干恥ずかしいが、尻が丸出しなのがよい。

 

毎年博多で7月に開催される
櫛田神社に奉納される祇園祭。
http://www.hakatayamakasa.com/kushida.php


祇園祭といっても、京都の祇園祭と異なり、素朴で勇ましい、荒荒らしい。
私は京都の祇園祭は、洗練されすぎており田舎者には
分かりにくい、
単純で荒々しい博多の山笠の方が、単純で好きである。


長谷川 法世が有名。
代表作に『博多っ子純情』がある。福岡・博多に住む思春期の男女の青春を
描いた作品として人気を集めた。

「お櫛田さん」の愛称で広く市民から親しまれている神社。
奉納される博多祇園山笠は、博多の夏の風物詩として全国的にも有名。
櫛田神社には「博多へい」がある。
http://www.geocities.jp/joysunny/fukuoka/fukuoka172.htm

櫛田神社の博多へいの前で
櫛田神社の博多へいの前で

 

 

 

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京都の祇園祭は優雅で博多の荒々しい山笠とは雰囲気が異なる。
京都の祇園祭は優雅で、博多の山笠とは雰囲気が異なる。

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櫛田神社に奉納されている飾り山笠
櫛田神社に奉納されている飾り山

 

 

博多 西鉄ライオンズ 神様仏様稲尾様

神様、仏様、稲尾様、西鉄ライオンズの黄金期に貢献

稲尾投手は、入団当初は注目された選手ではなく、バッティング投手として入団
打撃投手を務めており、 「手動式練習機」とも呼ばれていた・・・

東京の憎い巨人をやっつけてくれた。博多の英雄! 
ヒットは打たれるが、何故か2アウトからが多かったので点は取られなかった。
打者へは初めに「アウトコース低め」のスライダーで、
すぐに
「ストライクを二つ」取っていた。

博多の少年野球のピッチャーはあこがれの稲尾投手の
投球フォームを真似て投げていた。

1963年日本シリーズ「西鉄vs巨人」
https://www.youtube.com/watch?v=9cIfVJmqthY

背番号24 稲尾投手
背番号24
稲尾投手

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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