博多 西鉄ライオンズ 神様仏様稲尾様

神様、仏様、稲尾様、西鉄ライオンズの黄金期に貢献

稲尾投手は、入団当初は注目された選手ではなく、バッティング投手として入団
打撃投手を務めており、 「手動式練習機」とも呼ばれていた・・・

東京の憎い巨人をやっつけてくれた。博多の英雄! 
ヒットは打たれるが、何故か2アウトからが多かったので点は取られなかった。
打者へは初めに「アウトコース低め」のスライダーで、
すぐに
「ストライクを二つ」取っていた。

博多の少年野球のピッチャーはあこがれの稲尾投手の
投球フォームを真似て投げていた。

1963年日本シリーズ「西鉄vs巨人」
https://www.youtube.com/watch?v=9cIfVJmqthY

背番号24 稲尾投手
背番号24
稲尾投手

 

 

 

 

 

 

 

 

 

博多  「甦れ!俺の西鉄ライオンズ」

古き良きあの時代を博多で過ごした。今の時代にはなかった、
オーマンで、エネルギーと強烈な個性が同居していたチームだった。

私は幼稚園児だったが、平和台によく通っていた。
幼稚園までは入場料が只だったので、兄や知人に連れてきてもらった。
小学生になって入場料がいるようになると
だれも 私を連れて行ってくれなくなった。

豊田、中西、大下、特に稲尾・・みんな英雄だった。
そして巨人を倒して日本一になった。博多の街は興奮した!
平和台の外の木に登って応援した。

私を含め子供はみんな稲尾投手のピッチングフォームをマネしていた。
西鉄ライオンズは戻ってこない。

子供のころの私
子供のころの私

 甦れ!俺の西鉄ライオンズ

 (作詞・作曲:中山大三郎/編曲:京 建輔) (歌:黒田武士)

1.だれに怒っていいのか わからないが
おれの西鉄ライオンズ もうなくなった
高倉がいた 豊田がいた 大下がいた
中西がいた 関口がいた 和田がいた
太平洋 クラウンと 名前が変わる
その度に おれたちは とまどうばかり
 かえせ かえせ ライオンズをかえせ
 かえせ かえせ ライオンズをかえせ

2.どこのファンかときかれ 答える時は
今も 西鉄ライオンズ そう答えるさ
小淵がいた 仰木がいた 滝内がいた
河野がいた 玉造がいた 城戸がいた
生えぬきの 選手たち 悲しむだろう
あのころの 西鉄は あとかたもない

 かえせ かえせ ライオンズをかえせ
 かえせ かえせ ライオンズをかえせ

3.そしていつでも強かった 日本一だった
おれの西鉄ライオンズ 胸張ったものさ
稲尾がいた 河村がいた 島原がいた
西村がいた 若生がいた 畑がいた
なつかしい サムライの 姿がうかぶ
今もなお この胸の 血潮がさわぐ
西鉄ファンよ 今こそみんな 立ち上がろうよ
おれたちの手に ライオンズを とりもどそうよ
あたらしい名前は たとえば九州ライオンズ
心から 応援できるチームにしよう

 かえせ かえせ ライオンズをかえせ
 かえせ かえせ ライオンズをかえせ 

甦れ! 俺の西鉄ライオンズ youtube
https://www.youtube.com/watch?v=FoBjRP-Qmlw

Go To Top